こんにちは。カストリです。
名作ですね。久しぶりに読みました。
最近いいアプリがあって、著作権切れた本を無料で読めるもので暇つぶしに最高です。そこで、見つけたので久しぶりに読んでみた次第です。
最初に読んだのが、中学生ぐらいの頃だったかなと思います。良くわからず、名著だからと言う理由だけで読み始めましたが、かなり印象深かったのは覚えていますね。中学生でよく分かってはいなかったですが、確かにズシンと心の臓に重荷が掛かかりました。僕の人格形成に少なからず影響を与えているみたいです。
大人になり読んでみるとまた、違ったイメージをもったので少し感想を。
まず、このお話は実はコメディーなんじゃないかと感じたのです。葉ちゃん的に言えば喜劇語。人間失格は喜劇語かも知れない。と言うのも、良く読んでみると面白おかしく書いているところが随所にあり、主人公の性格が現れているといえばそうなのですが、コメディータッチだなと感じたのです。
喀血した血が日の丸になっていたり、バーのマスターだったり、疑う事を知らないヨシコだったり、結構面白人間で構成されています。
演出を少しでも面白くすれば、新喜劇みたいにできるような気すらしています。
しかし、一つ皮をめくってしまえば、どこまでも果てない自意識や、人間の悪意、醜さ、性、金、薬、それらが所狭しとひしめきあっています。でも、これって実際の人生でもそうで、一見喜劇に見せて、中身は全くの悲劇。なんなら、喜劇に見せないといけない悲劇のようで、皆努力して面白おかしくそして、弱みを見せず逞しく生きているのです。
そうすることが、葉ちゃんには難しく感じていたのかなと思っています。いつまでも喜劇を演じる、そうしていないと見放される、そして、ボロを出さないように生きるは難しすぎる。どこかで、この膿すら受け入れてくれる人がいないと、とてもじゃないけど生きていけない、そんな葛藤を描いていたのではないかと思います。
ですが、最後のマスターの言葉
「葉ちゃんはね、とてもいい子で、神様みたいな子でしたよ」
主人公は他者から見た時、少なくともマスターから見た時には、立派に優しく喜劇を演じることができていたのです。それと同時に汚い膿すら理解してくれている人が身近にいたのです。
なんと言う悲劇なんでしょう。こんなに近くにそんな人がいたのに、主人公は己の自意識に飲まれ、他者を恐れ、喜劇を演じ続けてしまうことで、気づけないでいたのです。こんな悲しいことありますか?
主人公に足りなかったのはコミュニケーション。もっと、他人と本当の意味でのコミュニケーションを取れていればこんな結末にはならなかったのかなと思うのです。
主人公が恐れていたものは実は他者ではなく、自身がイメージした他者。自分の思考からはみ出ていないものはどこまで行っても主観でしかない。イメージ、主観を恐れ、人に触れることができなかったのです。だからこそ、お酒に逃げていたのかも知れないとも思うのです。アルコールで己の思考を鈍らせることで、他者の恐怖を無くしていく。そうすることでしか、コミュニケーションを取ることができなくなってしまった。そんなところかと思います。
他者というものは、自分の考えもしない事を、想像すらしない事を、平気でするし考えているそれが当たり前。それが他者なのです。自身を、他人を客観視したところで、それはいつまでたっても主観でしかない。それらを投げ捨て、真に他人に関わることで初めて本当のコミュニケーションができる。怖がっていたものはつまりは幻想であった、それに尽きるかも知れません。
ですが、朗報です。この人間失格、ベストセラーなんですね。つまりはこの葉ちゃんに共感している人がかなりの数いるってことなんです。実際僕もそうです。皆んな実は悲劇をひた隠しながら喜劇を演じているのです。
そう思うと、なんだか安心しませんか?みんな一緒なんです。ちょっと力を抜いて、誰かとお話ししてみる気にもなってきます。
『面白い!!!』