もう、30年息をしている。
『今の仕事を辞めたいと思っているんだ』
当たり前の事のように口から流れ出る。それが自然なように。
『えっ?仕事を?』
『仕事を』
向かいに座った妻の顔は、みるみると歪んでいく。片方の眉が上がり、眉間に三つの皺がよる。警戒を怠らない小動物のようだ。
『どういうこと?もう直ぐ子供も生まれるのよ。何か次のあてがあるの?』
『ごめん。あてはない』
今度は両方の目尻が下がり、眉は綺麗な山を描いている。もともと表情の豊かな人だが、改めて見ると感心する。毎日鏡で見ながら表情を練習しているのだろうか。嬉しい時は口角をあげ、悲しい時は眉を下げ、一つ一つパーツを点検でもしているのだろうか。もしそうでないなら、才能といって差し支えない。
『本当に分かんない。あなたって人がつくづく分かんない。あなたの事だからもう辞表は出してるんでしょ。それだけは分かるわ』
『ごめん。そうなんだ』
僕は人と話す時によくイメージすることがある。表面に粗いやすりの付いた鉄の球。触れると、手に強わつく感触と冷たさが伝わってくる。何処かに柔らかいところはないか、安全なところはないかと探すが、その度に手は悴み、皮が捲れる。ただ時折、乾燥器から出したての暖かい綿のような部分に触れる時がある。だから、今こうして彼女と一緒に暮らしている。
頭を抱える彼女の口は一直線に固く結ばれている。
『ちょっとコンビニに行ってくるよ。直ぐ戻るから、また戻ったら詳しく話させて』
返事はない。
椅子を引き立ち上がり、玄関のノブを握る。やはりその感触は冷たい。
四月の夜の空気は、どこから運んできたかわからない草の湿気を含み、鼻腔を満たす。薄い綿のパーカーとスウェットのショーツは正解だった。いくらか気分が晴れる。
コンビニに着くと入って直ぐ左に歩き、雑誌を横目にウォークインケースからアサヒスーパードライを二本手に取る。いつものように。
妊娠する前は毎晩、同じように缶ビールを買っていた。奇跡的に綿の部分だけに触れることができていた。
手に取ったアサヒスーパードライをケースに戻し、彼女がよく食べていた、飲むヨーグルトとハリボーグミを買いコンビニを出る。
僕がそう感じているように、彼女も僕のヤスリの付いた鉄の球を感じているだろう。お互いに、柔らかい綿の部分をヤスリで引っ掻いてしまう。奇跡的に綿の部分が触れ合っていてもそれは、奇跡的なことでとっておきなことだ。
わかり合うことなんて傲慢なことかもしれないが、わかり合おうとすることはできるかもしれない。ヤスリで傷つくことさえ承知してしまえば。
僕は手を擦り合わせ、帰りを急ぐ。