こんにちは。カストリです。
今日は湯を張ろう。
ゴールデンウィークで遊び疲れた、人と会い、いろんな膿が溜まったこの体を綺麗さっぱりさせてしまいたい、そう思った。
この休みはひどい雨が続いて、ボロの木造アパートはキシキシ音を立てて、雨樋なんかは風で小刻みに震えている。遊びすぎて溜まりに溜まった洗濯物も洗濯しているから、やけに部屋が騒がしく、忙しないような気がする。
歩いて仕事に行く時、水溜りを踏んで靴が、靴下が、水浸しになった。替えの靴下なんかも持っていないため、仕事が終わる頃には足の皮がふやけ、ブヨブヨの深海魚みたいになっていて気持ちが悪く、やっぱりよくなかったのかやけに踵がかゆい。
あぁ、これは遊びすぎた罰なのかなとそんな気もするし、理不尽な気もする。どちらでも構わないが、今日はお湯に浸かろうと決心した。
帰り道もやはり雨が降っていた。僕は雨男だ。晴れ男とか、雨男とか、迷信だと馬鹿にしてはいるが、僕の雨男ぶりに少々恐怖するぐらいの信憑性がある。休みの日の雨の確率は75%、大事な日の雨の確率は80%、具体的には、自転車で旅行に出かけた日はスコールのような雨が降ったし、昨日の同窓会でも雨が降った、あんまりじゃないか神様。
雨が嫌いなわけではないけど、僕の好きなことは何もできなかったりする。家にいるのはつまらないし、かといってびしょ濡れで出かけてお店に入ったり、友達と遊ぶわけにもいかない。時々思うのだが、雨の日にも、まるでそんなものないように出かけて、いつも通り過ごして、それで一切誰も不信に、不気味に思わないのであれば僕は全く問題ない。濡れることが嫌なんじゃなくて、濡れた状態だといろいろと人との関わりに不都合が生じるから面倒くさいのだ。全世界の人が急に雨を気にする概念を忘れてしまえばきっと、五月病なんて言葉もなくなるんではないかと思う。
そんな事を考えていたら、水溜りを踏んだ車からの水飛沫でズボンがびちゃびちゃになった。前言撤回、やっぱりびちゃびちゃはシンプルに嫌だ。
やっと家に帰っきた。5月なのにやけに寒くて冷えた体、濡れて気持ち悪いズボン、早くお湯に浸かりたい。
早速蛇口をひねる。お湯は3回ひねって、水は180度ひねる、これが僕のベストな温度。ひねり常習犯ともなるとこんな具合だ。この、スイッチ一つで湯が湧くお風呂と違って、探り探りベストなところを見つける蛇口式が好きだったりする。確かに面倒くさいが、お風呂とコミュニケーションしているみたいで、お互い気を遣っているみたいで、いい関係を築けている気がする。
日本には浄めの水とか、滝行みたいなものがある。お風呂もそう言った意味合いが古くから伝わっている。これを僕は結構信じていて、きっと昔の人は、湯に浸かった瞬間にこれはいいと思ったに違いない。つまり、湯に浸かることが先で、清めみたいな意味合いは後付け。それでも、ただのでまかせ、口八丁ではないとも思う。
海外にも、バプテスマと言う、水に浸かり生まれ変わるみたいな意味合いのクリスチャンの儀式があったりもする。とにかく昔から先人たちは、疲れた時、冷えた時、憂鬱な時は湯に浸かれと教えてくれていたのだ。それに倣わない手はないだろう。
今日は散々だったので、しっかり入水。ちょっと熱い。まだまだコミュニケーションが足りないみたいだ。
肩まで浸かると、体の中の膿、黒いモヤのようなものが自分と分離していく感覚がある。ちょうど科学の実験とかで水に、色付きの液体をスポイトで入れるみたいに、それを逆再生した感じ。離れていく感覚。
こんだけで、あしたもまぁそこそこ頑張りますかなんて思えるからすごい。いろいろ溜まった時は湯に浸かりさえすればいい。そうしたら離れていく、そうしたらまた頑張れる、そんなものでいいのかも知れない。
そんな事を考えていたので少々のぼせてきました、これにて終い。
『湯好き』