カス鳥のブログ

日記とオモシロ記事を書いています。

matomo

こんにちは。カストリです。

 

まとも

 

真面

 

まじめなこと。正当であること。また、そのさま。

 

真面な人間がどれだけいるでしょうか?

日々生きていく中で、人間と接することがあるのですが、真面な人間ってどれだけいるのか僕は疑問に思っているのです。

真面な定義が難しいですが、僕の中では悪意を身に纏っていないと言うのが一つの指針としてあるのです。現在働いたり、普通に歩いている中で、僕は恐ろしいほど人の怖さを見るのです。

平気で畑にゴミを投げる学生、コンビニで悪態をつく人、自転車の危険運転に、それに舌打ちを打つ人、悪意で悪意を紡いでいる。いつ自分にその火の子が降りかからないかと怯えて暮らす毎日。そうしていくことで卑屈になっていく自分。こんな感情皆さん感じたことはないでしょうか?

しかしながら、生きている皆そんな顔一つせずに平然と過ごしているのが、僕には途方もなく、果てしなく、生きていく自信を無くしてしまう理由となっているのです。

分かってはいるのです。皆そういった感情は持ち合わせている、話す仲になればきっとそれも表に出てくるのだろう。しかし、歩く人皆に聞くことはできません。それどころか、仲の良い友人でさえ、それはひた隠しにするもので、なかなか聞けるものでもない。僕はそうして強く生きている人にどうしても卑屈な部分があると信じられないのです。

悪意を放つほど冷徹にもなりきれないし、弱い部分を見せないように生きることもできない、こうして半端に生きていると、一人しかいないような、圧倒的な孤独に深く落ちていくのです。誰かともわかりあうことができないんじゃないか、この先一生この不安を抱えながら生きていくのはあまりにも酷な気がしているのです。

これが真面とでも言うなら、真面になんか生きていくのはやめたい。

あまりに生きていくのに適していないと我ながらあきれるのです。もし、動物のように本能のままに生きることだけに注力していれるならどんなに楽なのか、人間として生きていくのにはどうしてこうも難しいのか。

きっと、誰でも、こんな感情を持ち合わせている。顔に出さないだけできっと持っている、そんな期待を胸に、そうであってくれと祈りながら生きていくしかないかも知れない。

そうであるならどうか、言って欲しい。そうしたら僕は救われるし、救うことができるのかも知れない。弱さを、卑屈さを、醜さを、それでも愛せるかも知れないから。

 


www.youtube.com

 

『感謝』